武田氏館跡@甲府市

国史跡「武田氏館跡」保存整備事業

「史跡武田氏館跡保存整備事業」は、平成20(2008)年1月 市長定例記者会見で発表されました。
私のブログでは2008.01.12 「武田氏館跡周辺の整備計画」を書いています。

私は2006年4月29日開催の大手口発掘調査現場の見学会に出かけて大変感銘を受けました。「武田氏館大手口三日月堀」という記事に残しています。
「史跡武田氏館跡保存整備事業の基本構想・基本計画」策定に至る史跡調査の経過は、分かった範囲ですが「甲府駅北口地区の歴史」ページに書いています。

この事業は、平成16(2004)年度に策定された『史跡武田氏館跡整備基本構想・整備基本計画』に基づき、整備対象地を4期に分割して事業を推進し、完成は武田信虎による建都から500年となる平成31(2019)年を予定しているものです。

武田氏館の全体図
武田氏館の全体図(甲府市教育委員会)2006-04-29 入手

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)と呼ばれる国史跡「武田氏館跡」は、永正16(1519)年に甲斐守護武田信虎が築いた館です。
武田氏館の周辺には家臣らの屋敷が建ち並び、館を頂点として発展した城下町「甲府」は、武田領国の政治・経済・文化の中心都市として成長し、今日の甲府市の原点となりました。
天正9(1581)年に武田勝頼が韮崎の新府城に移転し、武田氏館は機能を停止しましたが、翌年武田氏が滅亡すると、その後甲斐を統治した織田氏・徳川氏・豊臣氏の家臣団は、再び武田氏館を統治拠点として使用し、甲府城が築城されるまで使用されたと考えられます。
現在は、大正8(1919)年に創建された武田神社が鎮座し、館跡の姿も大きく変貌を遂げましたが、館跡を囲む堀や土塁などの区画からは、当時の面影を偲ぶことができます。
甲府市教育委員会では、地域の歴史ならびに戦国時代全体を学ぶ上で貴重な史跡である武田氏館跡を保護し、歴史を体感できる学習拠点として活用することを目的として大手(館の正面玄関)一帯の史跡公園整備を行います。平成19(2007)年度から発掘調査した成果を基に大手一帯の整備工事を進めていく予定となっております。
【1月10日記者発表資料より引用・編集】

文化庁 国指定文化財データベースによると以下のように記されていますが、指定基準の「史2」と「史8」は、昭和二十六年文化財保護委員会告示第二号(国宝及び重要文化財指定基準並びに特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準)によれば、「二 都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡」および「八 旧宅、園池その他特に由緒のある地域の類」となります。

名称: 武田氏館跡 ふりがな: たけだしやかたあと
種別: 史跡
都道府県: 山梨県 市区町村: 甲府市古府中町・屋形三丁目
管理団体: 甲府市(昭13・8・11),(武田神社)
指定年月日: 1938.05.30 (昭和13.05.30)
指定基準: 史2,史8
解説文: 躑躅ケ崎ノ西方ニアリ屋形ノ中心地域ニハ濠壘ヲ繞ラシ東曲輪、西曲輪、北曲輪等ノ地名ヲ存ス 今縣社武田神社ノ境内タリソノ南方ニアル字楳翁北方ニアル字逍軒屋敷等ノ地域ニモ亦濠壘ノ阯ヲ存シ舊規模ヲ窺フニ足ル武田信虎ノ築ク所ニシテ以後信玄勝頼ニ及ビ武田氏三代ノ居館タリ天正九年勝頼韮崎ニ新府城ヲ築クニ及ビ廢墟トナレリ

古府中町は武田神社一帯の住所ですが、屋形3丁目というのは神社南側、武田通り西側の梅翁曲輪を示すものと思います。史跡の指定範囲を明確に示した図があるのかどうかは知りません。

「史跡武田氏館跡保存整備事業」は以下のように4期に分かれています。
 1期・大手門周辺ゾーン 平成19(2007)年度~平成21(2009)年度
 2期・北郭全域ゾーン(上図の御隠居曲輪~味噌曲輪の区域)
 3期・西曲輪ゾーン
 4期・梅翁曲輪ゾーン

2008年7月に「武田氏館大手口公園の完成」と記事を書いておいたのですが、これは第1期の第1次工事、平成19(2007)年12月28日~平成20(2008)年3月18日に相当するものでした。
『平成19年度から史跡武田氏館跡第1期整備事業として大手門周辺ゾーンの第1次工事に着手しました。主に館跡東側の外郭線を形成する惣堀・土塁と惣堀に架かる北側土橋及び階段、大手石塁東側広場など約3,500㎡を整備いたしました。そのうち土塁や広場など本年度工事との調整もあり、一部は粗造成のみで終了いたしました。』平成21年1月 市長定例記者会見、「史跡武田氏館跡大手石塁の復元整備の現地見学会について」資料より)

1月記者発表にある見学会が2009年2月7日に開催されました(私は不参加)。1月8日~3月13日を予定期間とする第2次工事中です。
2006年4月の「武田氏館大手口三日月堀」見学会記事に書いたように、武田時代にはここに三日月堀があり、武田氏滅亡後の統治者による石塁構築の際の整地で三日月堀も埋められていたのです。
記者会見資料には『石塁の解体修理工事が目玉であります。大手石塁は、石積みの技術から武田氏滅亡後に甲斐を統治した豊臣秀吉の家臣団によって天正末から文禄年間に築かれた遺構と考えられ、織田信長が築いた安土城の正門など一部の城郭のみに残る貴重な構造物であります。』と記者会見資料には書かれています。

大手門周辺ゾーンは第1次、第2次で区域の北半分が終わる予定になっています。第3次以後は平成21年度事業として南半分になるものと思います。

平成16(2004)年度に策定された『史跡武田氏館跡整備基本構想・整備基本計画』が策定された経緯については、以下の「史跡武田氏館跡整備活用委員会」議事録が分かりました。平成17(2005)年11月からの「史跡武田氏館跡保存整備委員会」はこの基本計画に基づいて審議を重ねて「史跡武田氏館跡保存整備事業」がまとまったものと思います。
引き続き、その経緯を整理していく予定です。