甲府市の自治基本条例

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コンプライアンス
第2期-検証
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共同体のコンプライアンス

ニュース記事では無く、2008年9月7日付の読売新聞と毎日新聞の社説で知って驚きました。

大阪市のコメ卸売加工業者「三笠フーズ」が、有害な農薬やカビが残留している工業用米を食用と偽って転売していたことが明るみに出た。農薬は、中国製冷凍ギョーザ事件でも問題になった有機リン系の「メタミドホス」だ。少なくとも約300トンの汚染米が焼酎などに加工され、すでに流通している可能性が高いという。(読売新聞

喫緊の課題は、転売された事故米の流通ルートの把握と消費者の健康に影響が出ないかの確認である。なのに、農水省は「健康被害はない可能性が大きい」として、転売先を明らかにしていない。(毎日新聞

抽象的な言い方ですが「顔の見える方々」の生産した食材を主とする、「地産地消」でいくしかないです。2008.08.15 山梨戦没者追悼集会での井尻千男(いじり かずお)さんのお話のように、「農業の再生を基本にした共同体としての都市と地域の再生」ということを真剣に考えないといけないと思います。

毎日新聞が書いたような官庁の姿勢はこれまでもしばしば報じられてきたし、これからも嫌と言うほど出てくる事でしょう。しかし中央官庁という「共同体」においては、その中にある慣習法のコンプライアンスとしては正当な対処法なのかも知れません。

2008年9月8日に私がブログに書いた記事は上記の導入から始まっています。

コンプライアンスという言葉が頻繁に見られるようになったのはこの数年のことのような気がします。私は意味が理解できずに慌てて辞書を確認したことを覚えています。自分では自信をもって使えない用語です。
まず「コンプライアンスの意味と構造」 TKC全国会最高顧問 武田隆二氏の記事から引用させていただきます。(強調や下線は原文によります)

法律を遵守することがコンプライアンスであるという場合、制定法体系の国においては、明文をもって定められた規定は当然に遵守されるべき性質のものであるということは、改めてコンプライアンスという用語を用いるまでもなく必然である。したがって、この場合は、あえてコンプライアンスという用語は必要とされないであろう。
しかし、慣習法体系の国では、特定集団内において自然発生的に成立したルールが、不文律に、すなわち、暗黙のうちに守られるべきものとして人々の意識の中に定着し、安定化した場合、その安定したルールが、慣習法としての性質を持つこととなる。慣習法体系の下では、制定的な明文の規定が存在しないものの、法意識にまで高まったルールは、その組織を構成する成員がお互い守るべき義務として意識される。制定法ではないが、それについての遵守義務が発生する。これがコンプライアンスの本源的姿ではないかと考える。
したがって、コンプライアンスという用語は、英米法体系の国において発祥した概念であるように思われる。独法等の制定法体系の国では、コンプライアンスという用語を用いるまでもなく、法律の遵守義務は必然の問題であって、あえてそのような概念をもって表現するまでもないことであるからである。

日本の法律制度は明治時代になって文明開化の中でドイツの法体系から取り入れられたものだと聞いたことがあります。慣習法では無く制定法体系になります。だから日本にも以前にはコンプライアンスという概念は必要無かったのでしょう。
でも歴史的に考えたときに、日本では制定法体系は無理があった、日本は農耕民族の社会として慣習法で成り立ってきたからだと思います。「ご法度」という言葉は「法律」という意味ではなく「罰則」という意味で使われる事が多いですし、私は未だ不勉強ですが武田信玄が定めたという「甲州法度」も今の法律の形とは異なると思います。

井尻さんの講演を聴きながら思い出していたのですが、共同体を説明するのにゲマインシャフト=共同社会とゲゼルシャフト=利益社会という社会学の言葉があります。コミュニティという言葉はその両方を踏まえた意味で私は使うことが多いです、よく分からない事を曖昧に済ませるには都合がいいから・・・
『ゲマインシャフト(独:Gemeinschaft):地縁、血縁などにより自然発生した社会集団のこと。ドイツの社会学者、フェルディナント・テンニースの提唱した社会類型の一つ(共同社会)』(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
日本社会は歴史的にもともと共同社会であり、慣習法の社会だったと考えます。そこに成文法、制定法体系を持ち込んだのですから、村落社会(共同社会)はその後もそれぞれ独自の慣習法が存在し、その中では物事がスムーズに回っていたのだと考えれば良いのです。

制定法体系に基づいて職務を執行すべき公務員のフォーマルな組織の内部にもインフォーマルな組織があり、それは共同体であり、そこには慣習法がある。例えば「情報公開」という民主社会の行政として当然の理念はそのインフォーマル共同体のコンプライアンスにはそぐわないものだと理解すれば、全てが納得できます。

組織が本当に機能するにはインフォーマル組織の存在をかかすことはできず、組織を動かす時には常にそれを考慮に入れた執行体制が必要であると学んだのは私が受けた経営学・組織論・人間関係論などの授業でした、大昔の事です。フォーマルとインフォーマルの組織論が今も通用しているのかどうかは知りません。

甲府に来てネット記事から「山梨ルール」という言葉を知りました。ドライブしてそれを体感もしました。しかしそれが共同体の慣習法であるなら、一概に否定できるものではありません。郷に入っては郷に従えという言葉は慣習法コンプライアンスを意味しているのです。別な慣習法で育ってきた私はそれに順応するか、慣習法が変わるように行動を起こすか、それともこの地域から退散するか、三択問題ですが、歴史としての慣習法は変わらないからその地域としての意義があるのでしょう。結局は二択問題ですね。

しかし、制定法体系の中で全てを執行すべき人々がインフォーマル組織の慣習法に従ったコンプライアンスでしか判断できないなら、それはシステムの欠陥です。井尻さんのご講演は素晴らしかったのですが、私にはその点に若干の疑問が残り、これからも機会あるたびに考えていきたいと思っています。

日本国憲法の改正について、法体系を慣習法に変換すべきかどうかという最大の問題を無視していてもよいのかな、そんなことを感じることが最近多いです。ドイツ・ゲルマン民族と日本民族の違いってどうなのでしょうか。でも日本民族の柔軟性は制定法体系の中で慣習法的な運用もできるのでしょうか。
たまたま目についた「中央大学の歴史」に、『いまだ欧米先進諸国のように体系化された法典を持たない日本にあっては、欧米列強の模範国としての地位を占めていたイギリスのような慣習法の国を自らのモデルとし、実社会と密接に結びついた英米法を学ぶことこそが「法律実地応用ノ道」に達する最良の方法であるという固い信念を抱いていました。』などと書かれているのを読むと、運用の妙という言葉を思います。四角四面で考えてばかりいては、今の世の中、生きてはいけませんね。

 

ブログに2008.09.08 お米汚染、共同体のコンプライアンスとして掲載したものを転載、編集加筆しています。